幸せは。

What turned into the past thing.

 





 どこまでも広がるような青空。
その優しい暖かさは、まどろみを誘う。
木陰で寄り添いあう二人。
慶介の額に、小さい痛みが走った。
鞠乃のでこぴんだ。


「いってぇ…」


 慶介の批難するような視線。
鞠乃は悪戯っぽい笑みで返した。
ぺろっと可愛らしく舌を出している。


「せっかくのデートなんだよ? 寝ちゃったりしたらダメだからね」


 確かにそれもそうだ、と頷く慶介。
素直に非を認めると、上半身を起こして木に寄りかかる。
春の木陰というのは昼寝にちょうどいい、とは慶介の弁だ。
夏は蚊が寄り付いて寝られたもんじゃない、とも。
その度に鞠乃は笑う。
くすくすと可笑しそうに、片手を口元に添えながら。

 その仕草が、慶介は好きだった。
だから何かするたびに笑わせようとするのだ。
そしてその期待に、鞠乃は答える。


「木陰って、いいよな」


 その言葉に答えは返ってこない。
ふと、慶介の胸に鞠乃の頭が寄りかかってきて。
その頭に、彼は優しく手を添える。

 答えが返ってこなくとも気持ちは通じていると、慶介は信じている。
鞠乃は頷いてくれているだろう、とも。
これは決して自惚れでは無い。
彼女もまた、慶介の気持ちを汲んでくれる女性なのだから。

 気がつけば、彼女は寝息を立てていた。
僕には寝るなと言ったのに…と慶介が呟いたのはご愛嬌。
この陽気なら仕方ないだろうという結論に行き着いたようだが。
でこぴんしてやろうか、と考えて一人で微笑む慶介。


「この姿勢で寝るのは辛いだろ…。よいしょっと」


 鞠乃を起こさぬように横たえると慶介も寝転がる。
そして自分の腕に鞠乃の頭を乗せ、慈しむように抱き寄せた。
腕枕と抱き枕の二連コンボだ。
寝顔を間近に見ることが出来て、慶介としてもうれしい姿勢である。

 鞠乃の額に軽く口付けると、慶介は耳元に唇を寄せた。
寝ていようがいまいが、そのことは重要ではない。
重要なことは、今ここで二人で居られるという事実。
そして、その事実に基づく幸せ。


「愛してるよ、僕の鞠乃。ゆっくりお休み…」


 囁くと、慶介もまた眠気に身を任せた。
二人で居る幸せ。
それを噛み締めながら。










































「……うぁっ! ハァッ、ハァ…」


 夢だと、分かっていた。
もう二度と手に入らぬことだと知っていた。
鞠乃は、もう居ない。
あの幸せなひとときは、もはや過去の断片のひとつだ。
そう、納得したはずなのに。
理解したはずなのに。
 拳を、打ち付ける。
ガラスが砕け散り、拳から血が滴り落ちた。
しかし、その拳の傷もすぐに閉じる。
人間ではない生物…変異種の証。
それなのに。


「心が、求めているのか…。
 人外になって尚、生き残ろうとしたこの浅ましい体が求めているのか。
 鞠乃を。あの時を。
 もう…遅いというのに…」


 堰を切ったように涙があふれた。
子供のような嗚咽が。
しゃくりあげる音が。
ただ、室内に響くだけ。

 長い間封印していた、悲哀。哀切。
タガが外れた其れは瞬く間に心を埋め尽くし。
幼児退行したように、泣くことしか出来ず。
泣くことしかさせず。
今まで堪えていた涙が、全て溢れたような。


「俺は…俺は…」


 窓から見える空は、皮肉なまでに青い春の空だった。


「うおおおぉぉぉぉぉっ!!」


 まるで、あの日のように。










                         END










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