秘められた悲しみ
Painful...
月が、煌々と輝きを見せている。
星を見ようと空を見上げたとしても…見えるのは人口の光のみだ。
俺は今日、全てを失くした。
身よりも無く、孤独に生きてきた俺にとって彼女だけが唯一の家族だった。
いつも笑顔を向けてくれた彼女は…俺にとって本当に全てだったんだ。
終わりはいつも唐突にやってくる。
前触れも無ければ、慈悲も其処には存在していない。
世界に蔓延している新型のウィルスが在る。
紅の死神、クリムゾン・マカーブルと呼ばれるもの。
感染した人間は突き動かされるように自殺に走る。
その感染の証拠は紅の片目。
俺が帰宅したときには、もう彼女は冷たくなっていた。
紅の片目が目を見開いていた。
瞳孔は開ききり、もう既に手遅れだということを如実に示していた。
理解したのだ。
彼女は死んだ。彼女は土に帰るのだ…と。
理解はしていても、納得が出来ず…俺はそのまま彼女の傍に居た。
ずっと一緒に居よう、と誓ったはずだったのに。
彼女はもう、ここには居ない。
目のような綺麗な紅ではない、どす黒い血が彼女の手首から流れていた。
「…鞠乃の、命…」
これは、ずっと愛した鞠乃の命そのものなのだ。
俺は意図せずに、傷口に口付けていた。
血を啜り、鉄の味しかしない其れを嚥下していく。
傷口を舐めれば其処が治癒するとでも言うように。
生前、鞠乃が唾をつけておけば治ると言いながら舌を悪戯っぽく出していたことを思い出し。
涙を流しながら、ただひたすらに俺は血を飲んでいた。
淫猥とも取れる水音が風呂場に響いた。
涙を流しすぎたのだろうか。
酷く、喉が渇く。
緩慢な動作で立ち上がると、彼女であった肉塊に声をかける。
「少し待っててくれよ、鞠乃…」
返事はない。
それでも、俺には頷いてくれたように見えた。
洗面所のコップに水を汲み、一気に飲み干す。
そして、鏡を覗き込んだとき。
「…ルビーみたいで、綺麗だな…」
俺の片目には、ルビーのように輝く紅玉があった。
否、俺も感染したのだ。
愛しい人の命を奪った死神に。
しかし、俺の口から出たのは笑い声だった。
原因がなんだろうと問題はない。
死ぬ覚悟の出来ない俺を、彼女の居る場所に連れて行ってくれるのだから。
狂ったように、笑い声が反響している。
死への恐怖が薄れ、カミソリを持つ手が歓喜で震える。
一緒に、生きる。
この契りは守れなかったけれど。
永遠の誓いは、交わせる。
場所は何処でも良いのだ。
例えあの世だろうと…構うことは無い。
「…その前に。離れないように、一つにならないとな?」
鞠乃に微笑みかける。
鞠乃も、きっと微笑み返してくれているはずだ。
二人で過ごす永遠。
きっと…甘美な永遠になるだろう。
例えあの世など無くとも…一つになってしまえば。
ゆったりと、腕を取る。
白く美しかった腕は、白を通り越して青白い。
冷たくなった彼女の頬に手を添えて、耳元に唇を寄せて。
囁く。
「痛いかもしれないけど…我慢して? これは儀式だよ、大事な…ね」
彼女の柔らかい腕に、歯を突き立てる。
最も手っ取り早い、一つになる方法。
俗に言う、カニバリズム。
かつて愛しい人だった肉塊を、俺は存分に租借した。
熱く艶かしい吐息を聞かせてくれた唇を。
何度も唇を寄せ、快楽を共有した身体を。
白く、硬度のある骨を。
全て食べた。
数日をかけて、全てを。
それは、屈折していたとしても…真実の愛なのだ。
愛しい人と過ごす永遠のための儀式。
其れも終わりを向かえ…鞠乃の血で濡れたカミソリを俺は手首へと当てる。
何故こんなことになったのか考えるが…答えは出ない。
もう…全てが遅すぎた。
「今行くよ、鞠乃。一緒に…永遠を過ごそう」
カミソリの痛みが、甘美なものに思えた。
こうして俺は、死を迎えた。
死後の世界が在るのかは知らない。
死んだ後、どうなるのかも分からない。
けれど、俺は信じている。
彼女と過ごす永遠が存在することを…。
「おはよう、慶介。もう朝だよ?」
END